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  3. 【第一回】陸上とバスケの二刀流が土台。ケガとの闘いを支えたのは、恩師の存在と自分を信じる心(名古屋ウィメンズマラソン2024 3位・東京2020オリンピック マラソン女子 日本代表 鈴木亜由子選手)

2024年04月16日

【第一回】陸上とバスケの二刀流が土台。ケガとの闘いを支えたのは、恩師の存在と自分を信じる心(名古屋ウィメンズマラソン2024 3位・東京2020オリンピック マラソン女子 日本代表 鈴木亜由子選手)


華奢な身体からは想像もつかないほど、躍動感あふれる走りで観る者を魅了する鈴木亜由子選手。故郷の愛知県で開催された名古屋ウィメンズマラソン2024で見せた快走は、鮮烈に記憶に刻まれています。

身体が弱かった幼少期。丈夫に育ってほしいという両親の願いを受け、小学生の頃から陸上とバスケットボールに打ち込みました。中学時代には天才少女と称されるほど、快速で全国に名をとどろかせた鈴木選手ですが、高校時代にはケガや故障を繰り返し、想像を絶する苦難と幾度も対峙することに。

気力を失いかけた鈴木選手を突き動かし、再び走ることへと導いた思いとは――。

第一回のインタビューでは、幼少期から中学時代までのスポーツ漬けの日々や、ターニングポイントとなった高校時代の恩師との出会いまで振り返っていただきました。






 
Interviewer
ご実家は、愛知県豊橋市でお米屋さんを営まれているそうですね。

鈴木亜由子選手
はい。6歳上の姉と4歳上の兄の下に、米屋の末っ子として生まれました。

Interviewer
幼少期はどのようなお子さんだったのですか?

鈴木亜由子選手
身体を動かすのが大好きなおてんば娘でした。幼稚園の中にある小さな森を、いつも駆け回っていた記憶があります。

ただ、あまり身体が強くなく、ぜんそくやアトピーなどアレルギー体質だったこともあり、丈夫に育ってほしいという思いから、両親が積極的にスポーツをすすめてくれたようです。






 
Interviewer
スポーツとの出会いは?

鈴木亜由子選手
小学2年生の時、両親のすすめもあり、地元の陸上クラブに入団しました。自宅からすぐ近くに練習拠点があるクラブで、実家が商売をやっていたことから、週末に預かってもらえるという大人の事情も大きかったと思います。小学4年生からはミニバスケットボールのクラブにも入り、スポーツ漬けの毎日でした。
身体を強くするためにスイミングスクールにも通っていたのですが、水泳はどうも相性が悪かったですね(笑)。

Interviewer
中学時代もスポーツに明け暮れる毎日だったそうですね。

鈴木亜由子選手
中学に入ると、学校に陸上部がなかったので、必然的にバスケットボール部に入部。週末は、引き続き陸上クラブで活動していました。
中学時代は、近隣の学校のバスケットボール部員が集まって選抜チームのような形でクラブチームとしての活動もしていたので、平日は学校の部活動、週末は陸上とバスケットボールの掛け持ち。大会が近い方の活動を優先していましたが、休日は午前中に陸上の大会に出て、午後からバスケットボールの試合という日もありました。今思えば、結構多忙ですね(笑)。

中学時代のバスケットボールのクラブチームでは、女子バスケットボールの日本代表として現在も活躍している同郷の選手と同じチームでプレーしていたんですよ。違う中学校でしたが、週末だけチームメイトとしてプレーしていました。








 
Interviewer
トレーニングや練習が苦になることはなかったのですか?

鈴木亜由子選手
当時は陸上より、バスケットボールの方にモチベーションが傾いていて、陸上の練習を辛いと感じることはありましたが、バスケットボールでリフレッシュして陸上を頑張るという感覚でした。
バスケットボールはチームスポーツなので、みんなでボールを追いかけて喜びや悔しさを共有できるという、個人競技にはない楽しさがありました。

Interviewer
陸上に対しては、どのような部分に楽しみを見出していたのですか?

鈴木亜由子選手
陸上は“楽しい”という感じではなく、“面白い”という感覚かな。練習は本当に苦しいけど、頑張った分だけ結果が出る。苦しさの先にある喜びの大きさという面では、陸上ならではの達成感がありましたね。

Interviewer
大好きだったバスケットボールを辞めて、陸上競技に軸足を置くことになったきっかけは?

鈴木亜由子選手
高校入学が転機になりました。バスケットボールを続けたいという思いもありましたが、自分の力を最大限に発揮して上をめざせるのは陸上なのかなと思いました。
我慢強さとか、目標に向かって淡々と努力できる性格などは、長距離走者に向いていたのかもしれません。
ただ、身体的なベースはバスケットボールで培われた部分も大きいと思います。バスケットボールを通してしっかり基礎体力を養えたこと、個人競技とチームプレーを掛け持ちすることで精神的にもバランスが取れていたことなど、二足のわらじが功を奏し、すごく良いサイクルでスポーツに打ち込めていたと思います。
もし中学時代から陸上一本に絞っていたら、可能性がもっと狭まっていたかもしれませんし、今、長距離を走り続けていたかどうかもわかりません。

Interviewer
身体能力の面で、バスケットボールの経験が今の走りに活かされることもありますか?

鈴木亜由子選手
すごくあると思います。バスケットボールで養った身体のバネや瞬発力、ボディコントロールする力など、今の私の走りの特徴にもつながっている気がします。長距離のトレーニングだけでは身に付けることができなかった基礎力を、バランスよく備えることができました。

また陸上競技の中でも、最初から長距離だけに絞っていたわけではないんです。短距離や走り幅跳びといった長距離以外の種目を幅広く経験したことも、身体づくりの面では影響が大きかったと思います。

運動神経を養うために貴重なジュニアの時期に、伸び伸びとスポーツに取り組み、身体能力の土台を築きながらいろいろな身体の使い方を身に付けられたことは、今の走りにすごく活きていると感じます。





 
Interviewer
陸上選手としての歩みの中で、大きなターニングポイントになった出来事は?

鈴木亜由子選手
高校時代にケガを負ったことです。中学時代は2・3年生と全国大会で連覇し、順風満帆な競技生活だったのですが、心のどこかで「このまま順調に行くはずがない」という思いはありました。絶対にどこかで壁にぶつかると覚悟はしていたものの、高校時代は想像を絶する苦境の連続でした。
高校1年生と2年生の時、足の甲を2度手術。それ以外にも常に故障の連続で、高校生活の大半をリハビリに費やすことに。大会にも出られず、ふさぎ込んでめそめそしていた私を父が見かねて、地元で名を知られる指導者の方に相談してくれたのです。

その方は、体育教諭としての職を退かれたばかりだったのですが、落ち込んでいる私を見かねて何とかしたいと奮起し、指導を引き受けてくださることに。そこからはまさに二人三脚。根気強くリハビリやトレーニングなどをしていただき、高校3年生の時のインターハイには何とか出場できるまでに回復しました。

Interviewer
ケガを乗り越えて大会に出場した時、走ることに対する心境の変化はありましたか?

鈴木亜由子選手
中学時代の私は、走る意味など考えたこともなく、自分の記録更新や優勝するために走っていました。ただ、高校3年生の時のインターハイは、初めて誰かのために走りたいという思いが湧いてきたのです。
「私を信じて支えてくださった恩師のためにも、何とか走り切りたい」。その思いを胸にゴールをめざしました。先生がいなかったら、競技者としての今の私は間違いなく存在しないですね。

Interviewer
高校時代、苦しいリハビリ生活を乗り越えられたモチベーションの源は?

鈴木亜由子選手
「治ったら絶対また走れる」という自分を信じる思いだけです。練習でも大会でも、走っている時って本当に苦しいんです。でも、そのぎりぎりのところを耐えて耐えて、耐え抜いた先に自分を超えられる瞬間があるという根拠のない自信。他では得られないその感覚にとりつかれるように、リハビリやトレーニングに耐えていた気がします。







 

中学時代の私は、走る意味など考えたこともなく、自分の記録更新や優勝するために走っていました。ただ、高校3年生の時のインターハイは、初めて誰かのために走りたいという思いが湧いてきたのです。

「私を信じて支えてくださった恩師のためにも、何とか走り切りたい」。その思いを胸にゴールをめざしました。先生がいなかったら、競技者としての今の私は間違いなく存在しないですね。








長距離走という過酷な種目とは裏腹に、幼少期は身体が弱く、病気がちだったという鈴木選手。

「丈夫な身体を!」という両親の思いもあり、小学2年生から陸上クラブに入団。そして小学4年生からはバスケットボールとの掛け持ちというスポーツ漬けの日々を送る中で、類まれなる身体能力を身に付けていったのです。
ケガに苦しめられた高校時代には、初めての挫折を味わいながらも、恩師との出会いを機に不屈の精神でレースへ復帰。苦しいリハビリやトレーニングに耐え抜いた先にある、自分を超えられる瞬間を求めて闘い続ける決意をしました。

高校卒業後は日本を代表する長距離選手として、華々しく世界の舞台へと羽ばたいていった鈴木選手。第二回のインタビューでは、国際大会での思い出や、マラソンへの転向を決意する最後のひと押しとなった言葉などをお届けします。


※このインタビュー記事の内容は2023年12月時点のものです




<第二回 2024年4月23日(火曜日)掲載記事につづく>